暦便覧とは

暦便覧とは 吉日カレンダー

こよみ便覧という本があります。
この本は天明7年(1787年)に太玄斎という人が書いた暦の解説書のようなものです。こよみ便覧とも暦便覧とも呼ばれます。

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暦便覧とは

当サイトでも使いますが、暦に関することを調べていると「暦便覧には〇〇となっている」といった言葉をよく目にします。
この「暦便覧」とは一体なんなのか気になりますね。

暦便覧?こよみ便覧?

こよみ便覧は暦便覧とも書かれたりします。
これはどちらが不正解ということはなく、表紙はこよみ便覧、奥付というか目次には暦便覧と書かれています。

暦便覧は暦の解説書

暦便覧は天明7年(1787年)に太玄斎という人が書いた暦の解説書です。

太玄斎は松平頼救

この暦便覧を書いた太玄斎とは一体誰なのでしょうか。

松平 頼救(まつだいら よりすけ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。常陸国宍戸藩5代藩主。官位は従五位下・大炊頭。書道や茶道に優れた教養人であり、『垂裕閣法帖』16巻を編纂している。三島由紀夫は来孫である。

宍戸藩の本家である水戸藩5代藩主・徳川宗翰の六男。明和3年(1766年)、先代藩主・松平頼多が死去したため、その婿養子として跡を継いだ。享和2年(1802年)4月5日、長男・頼敬に家督を譲って隠居し、同年5月には剃髪して大翁と号した。文化5年(1808年)には太玄斎と号する。

文政13年(1830年)5月4日、75歳で死去した。

wikiより 

なんと常陸国宍戸藩5代藩主だったんですね!
太玄斎こと松平 頼救(まつだいら よりすけ)は、wikiにもあるように非常に文化的な人物で大名俳諧(江戸時代中期から後期にかけて大名や旗本の間で流行した点取俳諧のこと)でも非常に優れた成績を残したそうです。

この風流人、太玄斎がなぜ「こよみ便覧」を書いたのかは分かりませんが、その謎はこの「こよみ便覧」が発刊された年代に関係があるかもしれません。

こよみ便覧が生まれた天明7年とはどんな時代だったのか

天明とは安永の後、寛政の前で1781年から1789年までの期間のことを言います。
この時代は「天明の大飢饉」と「浅間山の大噴火」で大変な食糧難で餓死者が大変な数に登った時代です。下記の表をご覧ください。

年月日 出来事
天明2年-8年 天明の大飢饉
天明3年(1783年)7月6日 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
天明4年(1784年)2月23日 筑前国志賀島で金印発見。
天明4年(1784年)4月 田沼意知が江戸城内で佐野政言に殺害される。
天明4年(1784年) 蝦夷地の開拓が始まる。
天明6年(1786年)8月 田沼意次が失脚。
天明6年(1786年) 最上徳内、千島を探検し、得撫島に至る。
天明7年(1787年)4月 徳川家斉が将軍に就任。
天明7年(1787年)5月 天明の打ちこわし(江戸・大坂で米屋が打ち壊された事件)。
天明7年(1787年)6月 松平定信が老中に就任、寛政の改革を行う。
天明7年(1787年)6月7日 御所千度参りが起こる。
天明8年(1788年)1月30日 天明の京都大火により、皇居炎上、京都の大半が焼失。
天明8年(1788年) 尊号一件始まる。

そう、暦便覧が書かれた天明7年(1787年)はまだまだ飢饉の真っ盛りで、あまりの米価の高騰に打ちこわしまで起こっています。
この「天明の打ちこわし」は米価の高騰だけではなく、その原因でもある「商人と癒着した政府への怒り」「富裕層が溜め込んでる米への怒り」「田沼意次の腐敗政治絶許」などさまざまな民衆感情が込められたものでした。
実際、天明2年から続く冷害で米どころか全ての作物が不作となり、野山の植物も枯れ動物も魚も減り、貧しいものから死んでいったのです。

この天明の飢饉の原因となった冷害がなぜ起こったかは明確になっていませんが、1783年6月3日 アイスランドのラキ火山 (Lakagígar) の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と同じくアイスランドの1783年から1785年にかけてのグリムスヴォトン火山 (Grímsvötn) の噴火があったことによる、気候の変動ではないかと言われています。
これにプラスして天明3年には浅間山が大噴火して、噴火だけで二万人の死者を出しています。この噴火によりさらに日射量が減り、不作を加速させたことは言うまでもありません。

この大飢饉は1788年まで続き、死者は東北だけで50万人を超え、人口が半減した藩もあったそうです。天明6年の日本の総人口が約2500万人と言われていますので、その被害の大きさに驚くばかりです。現代で例えるなら札幌、福岡、大阪市あたりの人口が全部なくなるくらいの衝撃です。

天明の飢饉の時の常陸国宍戸藩と太玄斎

太玄斎こと松平 頼救(まつだいら よりすけ)は常陸国宍戸藩の藩主でした。常陸国宍戸藩は今でいう現在の茨城県笠間市平町(以前は宍戸町があったのですが笠間市に吸収合併されました)にあたります。
太玄斎が藩主の時代はちょうどこの天明の大飢饉にぴったり沿った時代でした。そのため6代藩主頼敬の頃から財政の窮乏化、天災による農村の荒廃が相次ぎ、藩は北陸などから逃散した百姓の入植を奨励したのですが、不徹底だったため改革は失敗しています。そう、太玄斎は風流な文化人で有名な藩主でしたが、正直そんなことやってる場合か…と思えるくらい貧しい上に政策もうまく行ってなかった訳です。

宍戸藩の隣の笠間藩も天明の飢饉の時にはかなり困窮したのですが、笠間の名君、牧野 貞喜(まきの さだはる)が1792年に藩主となり建て直しています。民間から知識人を登用し領民に寄り添い質素倹約を推奨し、時に他藩と揉めてまでも領民と藩を救った行動派の名君でした。宍戸藩が後世に語り継がれる名君を輩出した笠間藩に、後の世で吸収合併されたことになんとも言えない郷愁を感じます。

天明7年(1787年)にこよみ便覧が作られる

さて、この天明7年は田沼意次が失脚して松平定信が老中に就任、寛政の改革を行った年です。
まだまだ天明の飢饉の影響は強く、米の買い入れに借金しまくった藩の救済が必要で質素倹約令が出たりしてました。「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」なんて俳句が流行した時です。

前年の1786年には異常乾燥と洪水が起こり、やはり不作で農村から都会へと食と職を求めて農民が大移動しています。これが労働力の不足を招き、さらなる不作へと繋がります。そして打ち壊しが始まっちゃう訳です。

太玄斎がこの年に「こよみ便覧」を書いたのは上記のような都市部への人口の流出が一番大きな理由なのではないかと思います。
人がいなくなれば知識もなくなります。農作を行う村は一つの共同体ですので、労働力と同時に農業に関する知識もなくなるのです。そうなれば種まきに良い時期、稲を植える時期、収穫の時期、草取りの時期といったものをいつ行ったらいいのかということも消えてしまうのです。
ただでさえ不作が続いて、さらに農業の経験者も食えずに出て行ってしまう…残されたものにはさらなる困窮が待っています。
それを少しでも食い止めるために、太玄斎はこの「こよみ便覧」で農業の知識を広めたかったのかもしれません。

実際、この「こよみ便覧」は漢字にルビが振ってあり、仮名しか読めない農民でも読めるように書かれています。当時は平仮名なら読める人がかなりいましたので、読めないものでも教えてもらえるということだったのでしょう。
内容も18ページしかなく、一年の季節の移り変わりをギュッと濃縮していて非常に読みやすいです。

暦便覧を読んでみてね!

太玄斎こと松平 頼救(まつだいら よりすけ)がなぜ「こよみ便覧」を書いたのかは分かりません。松平 頼救の生涯についてめっちゃ詳しく書かれたものってないんですよね…。

  • 水戸藩第5代藩主徳川宗翰の6男で、明和3年(1766)宍戸藩主松平頼多の養子となった
  • 水戸藩の「垂裕閣法帖」(中国の書道全集)の編さんに中心的役割を果たした水戸藩を代表する能書家
  • 非常に文化的な人物で大名俳諧でも非常に優れた成績を残した
  • 天明の大飢饉後、北陸地方の農民を宍戸藩領に移住させる入百姓政策行った

といったことくらいです。松平 頼救の功績としては「水戸藩の「垂裕閣法帖」(中国の書道全集)の編さん」の方が有名なものになるでしょう。松平頼救の来孫には三島由紀夫がいることも、文化人としての松平頼救を際立たせています。
しかし、このこよみ便覧を読んでみると、自分の知識を人に伝えて少しでも暮らしが良くなるように、領民のことを思った藩主の一人であったことが伺えます。漢字に振ったルビに、分かりやすく簡潔な言葉にそれが滲み出るのです。
松平頼救こと太玄斎は、この天明の飢饉を乗り越えざるを得なかった藩主の一人で、その後75歳まで生きました。
茨城県の歴史観にはその肖像画が所蔵されています。

AmazonのKindleで0円でこよみ便覧がよめま〜す!
ぜひ読んでみてくださいね!

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